wacana29’s blog

思ったことを気楽に文章にして積んでおきたいだけの倉庫。

会話というものの難しさ

 「過剰適応型適応障害」。

 2016年秋、わたしについた病名。
 最初はなんのこっちゃと思ったが、最近ようやくわたしの根っこに染みついた悪癖について、いろんなことがわかってきた。今日はわたしがとっても苦手とする「会話」という生き物について話そうと思う。

「会話は生き物」の受け入れがたさ

 昔から、人とコミュニケーションをとるのが苦手だった。相手の顔色を窺い、相手の欲しい返しを即座に返す。なんて高度なことをみんなはやっているんだろうと思いつつ、しばしばこちらの予測した範囲を超えた反応が返ってくると困惑し、処理落ちした。
 だから会話は苦手だった。一対一ならまだしも、三人以上での会話になると二人分の発話と返事を予測し、二人分の顔色を窺わなければならない。結果、わたしが発話する隙はなく、ただ二人の会話に相槌を打つ存在になっていた。
 わたしが考えてきたコミュニケーションは確かに高度すぎる。だが、ほとんどの人間はわたしのようには会話を捉えていないようだと、最近気がついた。
 どうも、その場その場で自分が考えたことを発話しているだけなのだ。その場その場の話題に、思い思いに反応を示しているだけなのだ。わたしがふだんやるように、相手の反応を先回りして譲歩したり、相手の期待した反応をして見せたりはしていないのだ。
 昔からコミュニケーションを苦手としていたのは、わたしの「先を読みすぎる」「相手に気を遣いすぎる」という、生来の性格のせいだったらしい。ほとんどの人はそこまで他人に気を遣わないらしい。まじかよ。でもそれでだいたいの人はやっていけるのだ。まじかよ。


 小学生のときから、君はまじめだからと学級委員長やクラス委員をやらされ、中学では絶対にリーダーはやらんと思ったのに学級委員長に推薦され、周りからも君以外にいないと推されて仕方なく委員長を三期続けてやった。あの頃の学校生活は本当に苦行だった。一枚岩ではない思春期の男女が集うクラスのまとめ役としてありながら、担任教師からの信頼も厚く、「教師に反抗的な生徒たちvs教師たち」という構図の板挟みになっていた。両者の間を取り持つのは決してわたしの仕事ではないはずだったが、周りがそう期待したのでやらざるをえなかった。

 今考えるとどうも可愛げのない優等生だったし、わたしの使いどころなどそのあたりしかなかったのだろう。そう、人の顔色を窺ってうまく立ち回ることくらいしか、わたしに取り柄はなかったのだ。

 高校に入って部活が楽しくなっても、相変わらず他にやる人がいないからと部長になり、同期がやらかした問題の全責任を先輩から問い詰められ、教えられもしなかったことをあとから明かされてきちんとやれとお叱りを受け、兼部勢の〆切ブレイカーズに神経をすり減らされても、誰もいない部室で進んで部誌の編集作業にあたり、日が暮れるまで生徒会室の印刷機とにらめっこしていた。

 たまに他の部活の友人に助っ人を頼まれて断り切れずに受けたが、そのために本部活を留守にしたので部長としての責任感が足りないと先輩部長に謗られたりもした。『いや、普段誰も部室にいないくせにわたしにだけ責任感とか言う?』とは思ったが、たしかにわたしの留守を託す宛てを作らないままほいほい助っ人に出たのは浅はかだったので黙って謝った。

 

 わたしの失敗談を掘り返すと、ど「目の前の人間の顔色を窺いすぎ」なことに起因していることがわかる。クラス中の期待の視線、先生の信頼の目線、部活動仲間の…なんだ?あれはなんだった?まあこいつに任せとけばいいやみたいな視線だ。部活に関しては好きでやっていたことなので別に悪い気はしなかったが、よその部活への助っ人を引き受けたのは目の前の友人に何度も頼まれて断り切れなかったからだ。

 どうもその視線が正であろうと負であろうと、「期待のまなざし」というものに折れやすい性格だったらしい。他人から見ればお人好しとも、都合のいい人間とも言うのだろうか。
 とにかくその場を丸く収めることだけを考えて、率先して面倒くさかったり分が悪かったりする役を引き受けてしまうのだった。結果、まあ面倒くさくて分が悪いので苦しむのだ。引き受けた先の悪い結果がわかっていても引き受けてしまうのがわたしの悪癖だった。

 この「気を遣いすぎる」というわたしの性格が、会話の難易度を格段に上げていたらしい。今日も通院している心療内科で似たようなことを言われた。相手の反応を予測して先回りして喋る癖があると。オタク特有の早口みたいなものだと思ってくれればいい。あれがもっとテンション低めでうだうだと続く。遮られたり相槌をうたれる猶予がないほど、伝えたい情報をひとまとめに喋ってしまうのだ。信頼している医師相手でもその調子だ。克服には時間がかかるだろう。

 相手に気を遣いすぎるから、予想外が連発する会話の流れについていくのがストレスになり、一度の会話でかなり疲弊する。会話というものに苦手意識を持ち、何度もその日の会話を脳内ループ再生して悪かった点を洗い出す。次の日の会話は前日の夜にあらかた用意しておいたことをまたひとまとめにして話す、その繰り返しだ。

 実はもっと、その場その場で揺れ動く曖昧なものなのだ。会話というのは。わたし一人が展開を予測できるほど単純なものではないのだ。けれど「会話は生き物」というその事実が、先回りして先手を打っておきたい性格のわたしにはどうにも受け入れがたいものだった。

 人と関わらずに過ごせるなら過ごしたいと思ってしまうのは、会話に感じているハードルが一般の人間より高すぎるせいなのだろう。

 

「会話を管理したい」

 わたしは一次創作というものを最大の趣味にしているが、思えば一番の動機はこれだったかもしれない。絵が描けるからとか、お話を描くのが好きとか、本を読むのが好きとかそういう次元の以前に、「生身の人間との会話が苦手すぎて自分で管理できる会話に身を置きたい」という動機だ。

 

 自分で想定できるキャラクターの内面、自分で設定できる舞台背景、そこで織りなされる、ある程度自分にも予想のつく会話の内容を書き留める。最初に一次創作を始めたころのノートには、「誰がしゃべっているか」という情報とともに、滔々と「会話」が続く。その中でさまざまなアクションが起こっていようと、書き留められていないのだ。
 漫画を描くことを覚えてからは、キャラクターの顔を交互に描いて、吹き出しにセリフを入れる、いわゆる顔漫画をよく描いていた。あれはわたしにとっては「会話漫画」だ。誰が何を発言しているかがわかればそれでよかった。
 登場人物が三人以上になると、会話も厚みを増してくる。一対二の構図がたまに一対一対一になり、二対一になり、また一対二に戻ったりする。アクションもついて、なんとなく言葉で説明しなくても、どこでどんな状況になっているかわかるくらいの漫画が描けるようになった。それでもアクションが中心になるコマは少ない。中学生くらいまでに描いたものの大半はまだ「会話」をしているだけの漫画だった。

 

 一次創作のキャラクターに会話をさせるという発想は、わたしなりの現実シミュレーションが始まりだったと言っていいのかもしれない。家に帰ってぼうっと天井を眺めながら今日の生モノの会話を思い返し、あそこでこう返せばこういう流れになっただろうか、とシミュレーションしてみる。いくら頭で考えたところで終着点が見えないので、次元を落として二次元キャラクターに喋らせることで可視化する。そこでオチがつくと、ああ、会話って面白い、と思える。ただし、この作業が面白いと感じるのは、ある程度自分で会話を管理できたという達成感からだ。


 無論、二次元であろうと会話は生き物だった。キャラクターAが発言したことに、キャラクターBが否定的な反応を返せば、Aは怒るか、悲しむか、驚くか…Bが肯定的な反応を返せば、Aは喜ぶか、話を続けるか…。一つの選択肢の先には、無数の選択肢が待っている。だから何度も何度も同じキャラクターで同じ状況を再現し、どんなふうに会話に違いが出るかを繰り返し確認する。この作業が楽しいと思えてしまったから、今こんなに一次創作にのめり込んでいるのだろう。同時に、生身の人間との会話に割けるエネルギーが枯渇したのは確かだ。私は小学生の後半にはすでに引きこもりの気質を見せていた。


 二次元のキャラクターはわたしにとって他人でありながらどこか俯瞰できる存在で、時間の流れが違うから次のコマを描くのに一日かかっても、漫画の中では即座に反応を返したように見える。この管理しやすい会話を管理するのが楽しくて、飛ぶように過ぎていく時間を共有している生身の人間との会話はペースが速すぎて消耗した。

 

未だに高い会話という障壁

 今でもなお生身の人間との会話は苦手だ。誰かと会う約束があると、仲のいい人だから会えるのが楽しみではあるのだが、無数の会話パターンを想定しては一喜一憂してしまい、前日にはもう出かけるのが憂鬱になってくる。会う相手が苦手とかではなく、いざ本番の会話でへまをすることが怖くて足がすくむのだ。

 大抵は、気のいい友人たちなので会ってしまえば緊張などしないのだが、会うまでが不安で押しつぶされそうになる。なので、道端でばったり会ってちょうどどちらも暇だから一緒にお茶をする、くらいが最もわたしにちょうどいい遊び方なのだ。

 つまり、「会話をする予定がある」状態がもっともわたしにとってストレスが大きいのだ。だれとも喋る必要のない、一人で映画館とか一人カラオケとかなら、店員さんと少し情報をやり取りすればいいだけなので、そこまでストレスがかからない。

 もちろんばったり会う時に両方用事がないなんてことはないし、そもそも道端でばったり会うことなんてほぼない。

 

 以上が対友人の会話だが、対他人となるともう緊張度合いが恐ろしいことになる。何と言っても相手の反応がまったく想定できない。どんなことに興味があって、どんなことが好きで嫌いで、どんな態度だったら失礼じゃないか、そういったことがほぼ未確定の状態で会わなければいけない。面接とか無理だ。こわい。もちろん想定できる状況はまああるわけだから、できないわけではないが、これは恐怖度の問題だ。恐ろしいのだ。

 

 対他人の場合、自分がへまをすることが怖いというより、未知の場所に足を踏み入れて生きて帰ってこられる気がしない、という、戦場に赴くような漠然とした恐怖に晒されているような心境だ。自分の発話に関して返ってくる反応が予想できないばかりか、わたしが反応すべき質問の類もまったく予想できないのだから、本当に困る。

 もし仮に「好きな食べ物は何ですか?」なんて聞かれたらどう答えればいい? それは何を期待しての質問なんだ? 高価なものは避けたほうがいいか? むしろ安価すぎるものは好感度が下がるか? どれくらいの頻度で食べていれば好きなものにカウントされる? ……といった具合に、もうさまざまな配慮すべき点が浮かんでは消え、脳の処理が追いつかなくなる。簡単な質問ほどわたしには簡単ではないのだ。

 

 これがわたしの気を遣いすぎる悪癖による、会話における弊害だ。具体的に言うと、他人との会話というイベントが発生する一か月前には気の重さがあり、一週間前には憂鬱になり、三日前には体調不良になり、前日には胃の痛みと頭痛がして眠れず、当日は寝不足なのに緊張度合いがMAXというコンディションの悪さである。
 今から治せる気がしないが、治ったらどんなに気楽な人生を送れるかと思わなくもない。もう少し会話というものに対して気楽に構えて、会話を楽しみにして約束の日を待つことができるようになりたいものだ。


 何はともあれ、「会話という生き物に慣れる」という域にまで達する前に疲弊しまくって、他人との会話を避けてきてしまった今までのツケが、今後回ってくるのだろうなと薄々感じている今日この頃だ。

 

【コラム:今日の御言葉】

 昔から心が乱れた時には聖書を開くことにしている。今はスマホに聖書が入っていてとても便利だ。

www.bible.com

 うん、なるほど、いい言葉で心を満たせば、悪いことや、考えても仕方のない不安なことをうだうだ考える暇もなくなるかもしれない。

 聖句というのは不思議で、読むたびに自分の状況の違いによって味わいも違ってくる。クリスチャンホームで10歳の頃には聖書を与えられたものの一度も真剣に通読したことがないという万年にわかクリスチャンだが、今までの人生で何度も救われてきたのは確かだ。さすが世界で最も読まれているロングベストセラーなだけはある。

 

 上記のアプリでは英語のみならずギリシャ語、ヘブライ語ラテン語など、またほかのメジャーマイナー問わない言語まで対訳をたくさん確認できて、言語オタク的にも嬉しい。アルメニア語訳聖書とか見てみて。まず字が読めない。