冷たい砂漠で渇いた人間は、優しさという水を求めて彷徨う
|年末年始とスピード感、そして背中に冷たい世界
なんだか昨晩は眠れなくて久しぶりにどうでもいい感じの思考試験をしていたので、どうでもいい感じの日記にして書いておくよ。
クリスマスが終わったらすっかり年末、1月1日の午前0:00に飛び交うであろうあけおめの文字、お正月も三が日もそこそこに世間は仕事始め……。
毎年思うんだけど、このスピード感というか、切り替えの速さってなんなんだろうな? と。そんなにいそいそと、生き急ぐ必要性ってあるのかな?
電車の運行も分刻み、たかが2分遅れたくらいで謝罪のアナウンス。
時間に正確というが、それも過ぎたるは及ばざるがごとし、そんなに美談ではない。時刻、数字、そういうのが「ぴったりであること」に執着が過ぎない?
そりゃ病むわ。
なんというか、私が病んだのはコレだわ。
スピード感が早すぎて、自分はついていけない。だけど、それが理由でドロップアウトしたら、それで終わり。
世界は私に見向きもしない。
いや、正確には、「人間は」たまに見向きしてくれる。
だけど、それが「社会」を構成する一部になると。途端に冷徹になる。
具体的な「見向きしてくれる顔」を思い浮かべて、なんとか生きてる。
都会に行って思った。ぼんやりとだけど、ここにいたら、自分がなりたくない人間にならざるをえない、って。
だってみんな冷たい。余裕なんかない。自分のことで精一杯。顔も知らない通りすがりには、とことん冷たい。
|冷たい世界で生きる、人間の優しさ
先日、優しさの話を読んだ。
優しさって有限のリソースだって。だから、顔の見える、大事な身近な誰かに渡すものだって。
その結果、見向きもされない誰かが日々生まれている。彼らが、顔のない誰かが、そういう「冷たさ」しか心に蓄えられないと。
打ち捨てられた誰かに、そうやって少しだけ目を向けた記事だった。
あぁ、そうなんだ。わたしは、わたしに優しさを分けてくれた、あの人やこの人がいなかったら、そういう「冷たさしか持ってない人」になってしまっていたんだ。そう思った。単純に、他人事じゃないって。
その人の、自分の性格がどうとかではない。どんなに優しい人でも、その人が今まで受け取ってきた分までしか、人には優しくできないんだ。
だから限界が来る。そうしたら、これまで優しさを分けてあげた誰かに、それ以上優しさをあげられない。
それって、その人の優しさを充てにしていた相手は「裏切られた」って感じるんじゃないか。
その人のほかに、優しさをくれる人がいなかったら。冷たく心を閉ざしていくしかないんじゃないか。
そういう人にならないためには、どうしたらいいんだろう。
そういう人を生まないためには、どうしたら。
……たぶん、そういう人を救うために公的機関がある。生活保護だとか、社会保障とか。基本的人権を守ってくれる法が。
でも、そういう「冷たさ」って、必ずしも経済的困窮から来るものだけじゃない。
裕福でも支配されていたり、拘束されていたり。
支配したり、拘束したりすることでしか、自分の中にたまった「冷たさ」を紛らわすことができなかったり。
あぁ、なるほどな。冷たい世界に生きてるんだ。みんな。
冷たい世界で、人間は身を寄せ合って、優しさを分け合って生きてきたんだ。
そうしないと生きられなかったんだ。
だから、都会に出て「ひとりに」なったわたしは、「冷たさ」に凍えてしまったんだ。
|優しさを受け取るということ
ひとからの優しさがなかったんじゃない。受け取るのが下手だった。いまもそう。
優しさを受け取ると、その分の優しさはその人に返さなきゃと思う。
一人からたくさんの優しさを受け取ると、こんなに返さなきゃいけない、というのが頭を過ぎる。
だけど、ちょっと違うのかもしれない。
優しさを受け取ったら、その分は、自分の冷たさを埋めるのに使っていい。
たくさんもらったら、その人にはほんの少し返せる時に返せばいい。
自分の冷たさが埋まったら、今度は、余った分を、自分が大切だと思う人に少しずつ分ければいい。
それは、持っていていいもの。
わたしに渡された優しさは、わたしのものだから、わたしのために持っていていい。
使いたい時に使っていい。
あげて惜しくないと思える人になら、あげていい。
なんだか今まで、すぐに返さなきゃ、と思って辛くなってたけど、別に借金を作ったみたいに考えなくていいんだ。
優しさは有限のリソースだけど、それをくれるという行為は、金を貸すという行為とは違う。
|優しさって、もらったら自分のもの
たとえば、プレゼントをあげるようなもの。
プレゼントをもらったら、嬉しいかもしれないし、くれた相手やモノによっては嬉しくないかもしれない。
受け取る義務はない。気に入らなかったら、突き返したっていい。でもまあ、受け取って、あとは自分のものとして使っていい。食べるものなら食べていい、栄養にしていいよね。
で、プレゼントをくれた人に、どれくらいの物を返すかは、自分で決めていい。
たとえば高価な腕時計をもらったとして、相手にも高価な腕時計を贈る?
ううん、たぶん、その人は「お返しには高価な腕時計が欲しい」と思って、くれたんじゃない。
その人は、「高価な腕時計を渡したい」と思って、くれたはず。
自分がこんな高価なものを身につけるのは変だよなぁ、って思ったなら、その腕時計は自室にそっとしまっておけばいい。
嫌なら無理に身に付ける必要はない。
その人がいるところで、その人にもらった腕時計をつけてみて、その人が「あぁ、気に入ってくれたんだ」って喜ぶ…なんていう未来図があっても、素敵だけど。
素敵だけど、別にそうであるべきというわけじゃない。
気に入らなかったら身につける必要はないし、お礼だけ言って、あとはしまっておいてもいい。
もらった翌日とかにメ●カリで売りに出したりしたら、たぶんちょっと優しくないけど。でも自分にとって意味のない時計よりお金が大事なら、まあ、そうする自由はある。
もらったものは、自分のものだから。
|優しさってひとつじゃない
優しさを受け取る時も、たぶん同じ。
もらう優しさぜんぶが、自分の「冷たさ」を埋めるのにちょうどいいわけじゃない。
自分に合わなかったら、別に使わなくていい。無理して身につけようとしなくていい。
もらって嬉しかったら、それを伝えればいい。お礼を言えばいい。もらった優しさと同じ物を返す義務はない。
もし、優しさをくれた人が、「私はこんなに優しくしたんだから、君も私に同じだけ優しくするべき」って言い出したら、その人のくれた優しさはたぶん、優しさというラベルを貼ったゴミ。
それって優しさじゃない。たぶん。
ゴミは言いすぎたかも。ごめん。私も優しさっていう包装紙に包んだガラクタを配ってることがあるかもしれない。
でも、自分にとってゴミでも、誰かにとっては価値のあるものかもしれない。
でもね、自分にとってゴミなら、捨てていいんだよ。
捨てたくないけど、持っているには重いなら、ちょっと横に置いておけばいいと思う。
しまっておく場所がないなら、手放してもいいと思う。
冷たさが埋まってきて、かじかんでいた手も動くようになって。
その受け取った時には重かった優しさを運べるようになったら、他の人に配ればいい。
切り分けることができたなら、少しずつ返してもいい。
そうやって、冷たい世界のなかで、自分に必要な優しさだけを拾って、生きていきたいなと思った。
|結局のところ
優しさは、持っていていいもの。
持っているのが重かったら、そんな余裕がなかったら、手放してもいいもの。
自分に合わなかったら、身につけなくてもいいもの。
見返りを期待した優しさって、お互いの首を絞めるだけのガラクタ。
不要なゴミを押しつけられたら、捨てたっていい。
まとまらないけど、なんか、そんな感じかなって思った。優しさって難しいね。
私も好きな人に重めの優しさを押し付けがちだけど、相手にとって負担になってないといいなぁ。
負担になってるなら、その優しさは毒にもなるよなぁ。とか。
どこかで返さなきゃとか、そんなん気にしないで流してくれてるといいなぁ。
逆に、重めの優しさをぜんぶ受け止めようとして潰れたこともあるから。
そういうのもね、気をつけたいよね。うまく流して、自分の欲しいものだけ受け取っていればいい。
あとね、意外と世の中には、「見返りを期待してない優しさ」とか、「見返りを期待している優しさっていう名前の何か」とか、「受け止めきれないくらい重い優しさ」とか、「大きすぎて心に入りきらない優しさ」とか、溢れかえってるんだよね。
世界は冷たいって思ったし、冷たい世界が砂漠みたいに存在するのもほんとうだし。
だからこそ優しさという水をどうにかして求めたり、大事な人に過剰なほど注いでしまったりするんだろうね。
|冷たい砂漠で渇く人間は、優しさという水を求める
世界は冷たいけど、優しさという名前のものであふれてる。
欲しい分だけ受け取って。
相手が欲しいっていう分だけわけてあげて。
それで苦しさは減るかもしれない。
そもそも自分の欲しい分が与えられないなら、そうだな。自分が欲しい優しさが余ってそうなところ…オアシスをさがすしかないのかな。
砂漠を出して思ったけど、「冷たさ」って「渇き」で、それをうめる優しさが水なのかもね。
水って言ってもいろいろあるじゃない。
甘いジュースとか。酸っぱいジュースとか。炭酸水とか。アルコールが強かったり、硬水だったり。
あとは何? 美味しい水っていうラベルを貼った泥水なんかもあるかもね。
今求めている水がなんなのか、それを自覚するといいのかもしれない。
めちゃくちゃ喉渇いてて空きっ腹に、善意でアルコール度数ヤバいお酒とか流し込まれたら死ぬじゃない。
そういうのは、拒否していいの。
甘いジュースはいらないから、お水だけちょうだい、それでいいの。
今日はコーヒーが飲みたい気分だったけど、炭酸水をもらったらこれでいいか。それでもいいの。
紅茶が飲みたいから、コーヒーを買ってこられても嬉しくない。それでもいいの。
欲しいものがあるなら、それを明確に言語化できればいいんだろうな。
「あー、今日はミルクティーが飲みたいな!」って言ったら、ミルクティーを買ってきてくれる人がいるかもしれない。
いなくても、冷たい砂漠を恨む必要は、ない。そういうものと思っていいんだと思う。
「喉が渇いたな…」って言ってる人がいたら、「水でも飲みます?」って水を差し出せるのが優しい人だし。
そこにアルコールぶち込んだらちょっとヤバい人だよね、関わらなくていいとおもう。
水を差し出せるほどのリソースがなかったら、自分の身を切ってまで差し出す必要はないし。
他人の飲みかけの水を飲みたいほど渇いてる人がいたなら、ありあわせの水を差し出したっていいし。
でも、だからっていつも目の前にきて「喉が渇いたなぁ」って言われても、いつでも自分のところに水があるわけじゃないし。
渡せる分だけ。受け取れる分だけ。
そうやって優しさの水が回っていく世界になったら、冷たさの砂漠はそのままでも、生きるのがそんなに苦しくなくなるのかもしれないね。